Krom mountain

もう1か月ほど前になりますが、クロム山というところに行ってきました。街中からバイクで30分ほどです。この山の上から見る夕日はとてもきれいで、ハイキングがてらに三々五々登ってくる人たちがたくさんいました。頂上にはお寺もあります。

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実は5月末にも来たことがあるのですが、その日も曇っていて、落日は拝めませんでした。上の写真はその時に撮ったもので、緑の田んぼが広がっていました。

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これがほぼ同じところから先月撮ったものです。雨期で水量が増して、まるで干潟のような風景になるのです。

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少し角度を変えて村の様子を撮ったもの。なんだか大洪水の被災地みたいな感じがしないでもないですが、どの家もフローティング式になっているので大丈夫。

でもこれは1か月前の写真なので、今現在はもっと水面が上がっているそうです。来週くらいにまた行ってみるつもりです。

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途中の茂みであったモウさん。こっちの牛は日本では見ない白か、ちょっと茶色がかった牛で、とってもおとなしくて働き者です。

 

Baray(バライ)

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私はFacebook上で見つけたこの写真が大好きで、自分でも撮ってブログのトップページに使いたいと考えてセイハーにいうと、「うまくいるかどうかわからないけど、Barayに連れてゆくよ」ということで行ってきました。ウチからバイクで30分ほどです。(あとで知ったことですが、この界隈は、かつて内戦時代に激しい争奪戦が展開された地だったようです。) 

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途中にこんなものがありました。給水設備みたいですが、こういったインフラ支援の日の丸はたびたび目にします。ベトナムのホーチミンでも、よく見ます。 

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今は雨期で、湖面は高めだそうですが、この先どんどん上がってきて、10月の終わり頃には、手前の桟敷のすぐ床下まで来るんだそうです。 

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 魚を釣っているおじさんがいたので声をかけたら、えらく流暢な英語が返ってきて、あらっ!と思ったら、ポルポト政権時代にアメリカに亡命した人でした。久しぶりにカンボジアに帰ってきて、あしたアメリカに戻るといっていました。いったいどんな想いで故郷の池を眺めていたのかと、ちょっと胸が痛みました。 

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ウィークデーだったので人影はまばらでしたが、休日にはこれらのハンモックは満席になるそうです。地元の人たちの手ごろなレジャーとして、おしゃべりしたり、お昼を食べたり、軽く一杯やったり、子供たちは水に入ったりして一日を過ごすのでしょう。 

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屋根はヤシの葉で葺いてあって、なかなか美しいものでした。 

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チキンの照り焼き。魚とカエルも焼いていました。カエルは日本では見たことがない、丸っこい色黒の大福もちみたいなヤツで、腹を裂いて、米やハーブをつめて串焼きにします。皮はパリパリ、具はぎっしり詰まって、セイハーは大好物ですが、ハーブが苦手な私はちょっと。。。

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これが当地のカエルと国道沿いのカエル売りのおばちゃん。いかにもクメールという顔立ちですね。

で、肝心の水牛ですが、遥かかなたに何頭かいましたが、とてもカメラに収められる距離ではありませんでした。残念ながら次の機会に。

 

オールドマーケット

シェムリアップ最大の市場。中心部からバイクで15分ほど、ここまでは観光客はほとんどやってきません。広さはサッカーコートくらい?でも、建物の周りにもぐるりといろんな店を広げている人がたくさんいるので、相当に大きいです。






もちろん肉屋もたくさんありますが、当地はどちらかというと魚の方がメインで、バラエティも豊かです。


野菜売り場は、日本とほとんど変わりませんが、ハーブだけは圧倒的にいろんな種類が並んでます。


これは薬剤売り場に並んでいたので、“さるのこしかけ”みたいなもの?


米屋。カンボジア米というのは、アジア諸国の中でもおいしいと評判だそうです。確かに、冷えてもおいしく食べられます。もっとも、私はいつも一番高いのを買いますが。大きなスーパーに行くと、時々“ベトナム産コシヒカリ”というのも売っています。



バナナのてんぷら。


サンダル屋。すべてベトナムとタイからの輸入品。だからけっこう高いのです。時には、日本の方が安かったりします。


この商品はありますよ、どこに行っても。

Angkor Market

シェムリアップでは一番大きなスーパーです。立地は空港やアンコールワットに向かう幹線道路沿いで、広い駐車場にいつも大型バスが停まっていて、中国人、韓国人の団体客がどっと押し寄せてきます。あとは、ここに居住している西欧系、華人系、あるいは日本人などのお客さんばかりで、カンボジア人の姿は圧倒的に少ないです。相当に儲かっていると思います。

で、この店の棚に並んでいたものを撮ってみました。みなさん、目を疑わないようにね。中には、日本語を使用している中国製なども一部含まれています。

 

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一ノ瀬泰造の“墓“

日本から友人がやって来ていたので、一緒に Preah Dak Village(プレダック村)へ行ってきました。アンコール・ワット遺跡に近い村で、この村の青年たちが中心になって、観光による村おこしで頑張っていると、しばらく前に、東京の大学で観光学を教えている教授から聞いていたからです。

シェムリアップの中心部から、トゥクトゥクで40分ほどで到着、大卒“インテリ”のブンタン青年が出迎えてくれました。流暢な英語で、まずは本日のスケジュールの説明から始まりました。特産の線香や麺、カゴなどを手作りしている村人たちの家を順番に廻って、夜は、近くにある政府が開発した新地区の中のエコビレッジで宿泊ということです。

あたり一帯がユネスコの世界遺産に指定されているため、新しい家を建てることが難しく、開発などによって家を失った人たちが徐々に居住を移している地域のようですが、カンボジア人なら無償だそうです。新しく開墾された“オーガニック農場“には中国語の大きな看板も立てられていました。


ところでその説明の中で、ブンタン青年が「昼食後に Taizo Ichinose の墓に案内します」というのを聞いて、私はあっと声をあげそうになりました。一ノ瀬泰造の名前は、「地雷を踏んだらサヨウナラ」というフレーズと共に、私たちの世代なら、多くの人たちが知っている名前です。

うかつにも、今まさに私たちが“観光気分”でやってきた、この国のどこにでもある、火炎のように赤い土と濃い緑の樹木に囲まれた熱帯の村が、彼が26年の短い人生を終えたクメール・ルージュの村だったとは、想像だにしていなかったのです。


この木橋をわたったところに TAIZO の“墓”はありました。


ブンタンが連絡をしたのでしょう、この土地の持ち主で、“墓守”をしているコォン・トゥンというおじさんがバイクでやって来て、カタコトの日本語でいろいろ説明してくれました。墓のまわりはきれいに掃除され、傍らに設営されたあずま屋には、そうとうボロボロになった日本語の資料が何点か並べられており、サイン帳には比較的新しい日付の記帳が並んでいました。日本人の来訪はけっこう多いようです。

しかし、一ノ瀬泰造の墓はここにはないはずです。消息不明後、ご両親が生存を信じて懸命に捜索されているという話は、メディアでも比較的大きく扱われました。その後、1982年に遺体が発見され、ご両親によって本人であることが確認されて、遺骨はすぐに故郷の佐賀県に送られたはずです。一部分は、彼がそれほどまでに憧れたアンコールワットがよく見えるようにと、すぐ近くの菩提樹の根元に埋められたと聞いたこともあります。

“墓”へ入る小道の入り口には、「一ノ瀬泰造の墓」と、日本語で書いてあり、「一ノ瀬泰造ここに眠る」という文字も見られます。ブンタンも、「墓に案内する」といっていました。この“墓”は、2001年に、コォン・トゥンのお父さんが建てたそうですが、日本式でもクメール式でもない奇妙な形式の墓が、いったいなんのために建てられたのか、そこまでを聞く気にはなれませんでしたが、おそらくは、この場所から一ノ瀬泰造の遺体が掘り出されたのでしょう。




いずれにしても、泰造はシェムリアップにしばらく滞在して、当時クメール・ルージュの拠点だった“幻のアンコールワット”一番乗りのチャンスを待ち、この村でもほんの短い時間を過ごしたはずで、村人たちとの交流もあったようです。

周辺に拡がる湿地帯や丈高く茂るサトウ椰子、ブーゲンビリアにハイビスカスの花、小動物や昆虫たち、時には通ったかもしれない牛車、もしかしたら水浴びする子どもたちの姿も目にしたのかもしれないと、40年以上の昔を懸命に引き寄せながら、生きていれば私と同年のおじいさんとなっているはずの泰造にしばし黙とうしました。

 

本田監督デビュー戦

10日に行われた、マレーシアとの試合を見に行ってきました。シェムリアップからプノンペンまでは、バスで6~7時間ほどかかりますが、料金は10ドルほどです。

 チケットを購入するのに情報が入らず苦労しましたが、けっきょくスタジアムのチケット売り場でゲットしました。10000リエルのA席はすでに売り切れで、5000リエルのB席1枚、つまり150円くらいという、嬉しいお値段でした。

当日は、6時半キックオフの予定でしたが、夕方4時ころからものすごいスコールが始まりました。これだけ降ればむしろ本番にはあがるだろうと喜んでいたのですが、それがいっこうにあがる気配がなく、じゃんじゃん降り続きます。仕方なく、傘をさして歩いて出かけたのですが、これがもう、至るところ冠水で、最初の頃はそれを避けながら進んでいたのですが、もう途中であきらめて、スタジアムに向けて密集する車とバイクの間を縫って、くるぶしまでの水の中をジャブジャブです。

ゲートに近づくにつれて群衆の塊はじょじょに膨れ上がり、もうとっくに傘などさすことはできず、ようやく入場できた頃には全身ずぶ濡れ、首にまいていたタオルもどこかに消えて、寒さで身体がブルッと震えました。入り口で応援用の小旗と風船と、なぜか缶ジュースももらえて、なんとか無事に観覧席まで到着することができました。


予想では、4万人くらいだろうと聞いていました。収容人数5万人のスタジアムなので、やはりそれくらいでしょうか。雨が降らなければ、いっぱいになったかもしれませんね。


雨のためにキックオフが遅れたのですが、その間にいろいろなセレモニーが開かれました。観客席は若い人たちでいっぱいでしたが、彼らはみな雨には慣れているからでしょう、後半戦が始まるまでずっと降っていましたが、ずぶ濡れで声援を送り続けていました。

何度も書いているように、私はサッカーのことはまるでわかりません。今回やって来たのは、日本の友人たちから、「記念すべき本田監督のデビュー戦だから、お前行ってこい」というミッションがくだったからです。しかし来てみたら、ちょうどカンボジア側の真裏の場所で、本田監督がいるのかどうかすらまったくわからず、ひたすら応援団の様子を眺めているしかありませんでした。



前半はカンボジアの方が押し気味で、1点を先取しましたが、後半になってからは、明らかにマレーシアの方が押し気味でした。概して、日本人よりも小柄なカンボジア人ですが、遠くから見ていても、マレーシアの方が身体の大きさもパワーも優っているように感じられました。それに、マレーシアのゴールキーパーがよくて、たびたびのチャンスも潰されていました。そのたびに、観客席からは悲鳴のような声援が沸き起こりましたが、なんていうんでしょう、彼らが自分たちのチームを、こういっては何ですが、あまり強くない、まだまだこれからだというチームを心から愛して、育ててゆこうと考えているのだという思いが、大声援の底からじんわりと伝わってくるように感じました。



結果は3-1で、カンボジアチームは敗れました。本田監督も、デビュー戦を勝利で飾ることはできませんでしたが、最後まで選手を交代させて、すでに次の戦いに備えているようでした。

カンボジアという国そのものが、まだまだこれからの国であり、チームもまた、まだまだこれから強くなれるはずです。観客席に向かって手を振る若い選手たちと、スタンドで最後まで声援を送り続ける若者たちが、共に明日に向かっての新たな挑戦を始めた日だったと、私は満足して競技場を後にしました。

 

 

荼毘 つづき



翌日の4時頃に出かけると、棺はすでに塔の台座に上がっていました。午後3時頃に上げたそうです。葬儀ウォッチャーの私としては、これも見たかったのに、残念でした。周りでは、おそらく葬儀社の人たちでしょう、揃いの黒いTシャツを着た若い衆が10人ほども、忙しく立ち働いていました。

しばらくしてフト気が付くと、台座の上に乗せてあった棺が、台座の中に収納されていて、そこに葬儀社の人たちが、おがくずのようなものを詰め込んだり、固形の油のようなものを塗りたくったりしていました。塔からは放射状に電飾のラインが放たれ、花火らしきものも設置されました。
しかし、ほんの数メートル離れた位置に、寺の建物などがいくつかあるし、それほど広い敷地に設置された塔ではありません。高さはいったい何メートルあるのでしょう?寺の屋根よりはずっと高く、天を突く威容です。これに火を点けたら凄まじい火炎となるだろうし、延焼してしまう危険はないのだろうか?それに、今の時期、突然のスコールに見舞われたらいったいどうなるんだろう?などなど、不安や疑問が次々と溢れ出てきますが、聞ける人も周りにいません。

午後6時半の空はあかね色に染まりました。今夜は雨は降らないでしょう。滞りなく葬儀は終了しそうです。

やがて僧侶の読経が始まりました。これは予想に反して、遺影と花輪が飾られた塔の正面ではなく、その真裏の位置で行われました。周りを見回してみると、まったくの部外者というのは、どうやら私ひとりのようです。それでも息子さんの許可ももらっていることだしと、近づいて写真を撮っていると、突然、「離れてっ!」といった感じで誰かに肩を押されました。突然のことだったので、アタフタしていると、読経を終えた僧が、すぐ横の柱に設営してあった導火線に火を放ったのです。
その導火線から一気に火花が走り出て、瞬く間に何カ所かで点火され、それは凄まじいまでの破裂音となって、夜空に次から次へと満艦飾の花火がさく裂したのです。


しかし、そこで怯まないのが私の強みです。今にも降りかかりそうな火の粉をものともせず、カメラの動画ボタンを押しました。その時同時に、ズボッ!というような音とともに、棺が入った台座が点火されたのです。そして、それは炎が立ち上るのではなく、塔のてっぺんまで設営された煙突から、緑色の太い煙となって夜空に立ち昇ってゆくものだったのです。
この時になってようやく理解できたのですが、この地での荼毘というのは、積み上げた薪の上で赤々と炎をあげて燃え盛るものではなく、時間をかけて、いわば蒸し焼きの状態にして、故人をあの世に送り届ける儀式だったのです。
周辺にはふくいくとした香の匂いがたちこめ、読経も音響もなく無音の状態で、少しづつ少しづつ密やかな煙となって、87年の生涯を終えたひとりの女性は、天空に還っていきました。この光景は私にはとても感動的で、親族すら近くにいなくなった境内の片隅で、1時間ほどもぼんやり眺めていました。こんなふうに送ってもらうのもいいかなぁと思いながら。

荼毘(だび)


6日の午後、シェムリアップ川の畔をブラブラしていたら、お寺の門にこんな白布がなびいていました。葬儀がある印に違いありません。ここは、シェムリアップでも観光客が訪れる有名な寺です。


境内に入って見ると、やはりそうでした。こういうところを何と呼ぶのかわかりませんが、やはり葬祭用のスペースではないかと思われます。左手に仏像と祭壇もありました。真ん中に棺が置かれて、親族の人たちでしょうか、花を飾ったり供え物を用意したりと立ち働いていましたが、まだまだ少ない人数でした。花は白と黄色の菊の花に、白いデンファレの3種類だけで、これは日本とよく似ていて、派手派手の中国とは趣が違いました。



この「鯨幕」というのは、いったいどこが起源なんでしょうか?少なくとも、中国黄土高原の葬儀では見たことがなかったのですが。


すぐ横に、こんな立派な塔が建っていて、私は最初、これも何かの飾り物かと思っていました。ところがしばらく見ていると、中央の部分にバナナの樹の皮で何だか台座のようなものが造られ、それに彫刻を入れる職人もいたりして、むむっ、これはもしかして……と、ドキドキしてきました。

なかなか英語が通じなかったのですが、少しわかる人が出てきて教えてくれたのには、この塔は、故人を荼毘に付すための祭壇だというのです。その人がまさに故人の息子さんで、始まるのは明日の午後6時。故人は87歳、天寿をまっとうした葬儀なので、どうぞ見に来てくださいというのです。

 

ノラのお母さん

私が住んでいるアパートは3階建てで、1、2階に4部屋ずつあって、3階に大家さんが住んでいます。その1階の部分にちょっと出っぱった物置があって、その部分にトタンの屋根が付いているのですが、その屋根裏部屋が母子の棲み家です。最初は大家さんのネコかしらと思ったのですが、どうやらノラのようです。

2階にあがる階段の踊り場のところによくいるのですが、ガリガリに痩せていて、よくないかなとは思いつつ、こっそりキャットフードをあげるようになっていました。最初の頃はほんとうにおびえて、人の姿を見ると、すぐに屋根裏に逃げ込んでいたのですが、最近は子ネコの方が私になついてきました。

ちなみに、近所にはネコもイヌもたくさんいて、当然放し飼いなので、夜はイヌのけんかの騒ぎ声がけっこううるさかったりします。ネコも、ネズミ対策ではないかと思うのですが、日本のような部屋ネコはいないみたいで、ゴミ箱のあたりをウロウロしていて、みな野性的な風貌をしています。

部屋の前に置いてある靴棚の下に、トレイが置いてあって、そこに水とキャットフードを置いているのですが、子ネコがやって来て、ぱりぱり食べ始めても、お母さんは近づいて来ません。ちょっと離れたところで、子ネコの安全を確保するために、鋭い目つきで周りをうかがっているのです。自分だってお腹がすいているはずなのに、じっと我慢です。



そしてもう、お腹いっぱいになったかなと思われる頃に、ようやくやって来て、自分も食べ始めるのです。中国にいた時も、お隣にイケニャンというネコがいて、同じように子育てしていましたが、こんな警戒心はなく、最初から一緒に食べていました。どころか、どっちかというと、“われ先に”といった感すらありました。これは、飼い猫だったからなのか、古来よりの中国の伝統に染まっていたからなのかはわかりません。恐らくは、厳しい世界を生き抜くための、それがノラの特性なんでしょう。じっと様子を見ていると、その健気さに思わずホロリとさせられてしまうのです。