西バライ

 

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もうひとつ、とんでもない勘違いをしていました。10月6日にアップした「バライ」という記事です。私もそれが何なのかよくわからず、セイハーに聞いたのですが、彼が湖だと教えてくれたのです。いくらプノンペン出身とはいえ、まったく何も知らんヤツです。

先の本を読んで初めて知ったのですが、バライというのは固有名詞じゃなかったんですね。「灌漑用水池」という意味だったのです。

それでちょっと調べてみたのですが、シェムリアップの昨年の年間降水量は1281mmと、意外に少ないのです。ものすごいスコールが来るし、熱帯というと何となく多そうな感じがしていたのですが、乾燥熱帯気候というのだそうです。

私たちが行ったのは、西バライといって、1020年に完成。東西8㎞、南北2.2㎞で、現在もほぼ当時のままの大きさだそうです。それより前890年に、東バライが建設されていたのですが、それが使えなくなって、西バライが造られたようです。

“水を治めるものが国を治める”という言葉がありますが、アンコール王朝もまた、他民族との戦いに明け暮れたのと同時に、水と戦い続けてきたのでしょう。

1200年頃に、灌漑技術の変革が起こり、地方の中小河川に至るまでダム方式を取り入れて、バライの建設はされなくなりました。この新しい治水工事のために膨大な予算を使い切って、アンコール王朝は衰退していったのではないか、というのがこの著者の見方のようです。

プノン・クロム

しばらく前に日本からやってきた友人が“置き土産”していってくれた本を、最近読み始めたのですが、それは、石澤良昭著『アンコール・王たちの物語』という本です。そのしょっぱなから、驚きの連続で、自分の無知さ加減にあきれました。

アンコール王朝の創建を伝える碑文によると、紀元770年頃に若い王子(後のジャヤヴァルマンⅡ)がジャワ方面から攻め上って当時のカンボジア諸城市を征服して、802年にプノン・クロムの頂上で王として即位したというのです。このプノン・クロムというのは、おそらくは、私が10月19日付けでアップした「Krom mountain」のことのはずで、さっそくアッシー君を呼び出して今日、行ってきました。(プノン=丘)

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シェムリアップ川に沿って63号線をひたすらバイクで南下すること30分ほど。標高137mのプノン・クロムが右手に見えてきます。この道をそのまま進むと、トンレサップ湖に出ます。

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先回もご紹介しましたが、丘の中腹から水上生活を営む人々の村が目の下に広がります。住んでいるのは、ほとんどベトナム人だそうです。

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頂上から見た景色。水位のピークはすでに過ぎているそうで、この先徐々に水位が下がり、緑の畑に変わってゆきます。上方の森の向こう側は、東南アジア最大の湖、トンレサップ湖です。

つまり、上記の本によると、プノン・クロムを須弥山、シェムリアップ川をガンジスに見立てて、大扇状地に農耕地を開墾していったという、地理的選択の成功が、アンコール王朝の発展を支えたというのです。

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丘の頂上にこの遺跡はあります。実は先回行った時もものすごく気にはなったのですが、説明書きなどいっさいなし、管理する人もおらず、ガイドブックを見ても、ネット上を探しても何もみつかりませんでした。ただ、こういう古い遺跡は言ってみれば、あちこちに溢れかえっていて、けっきょく今回の本を読んで、そんなに“由緒”あるものだったのかとびっくりしたのです。アンコール王朝の栄えある創始者といわれるジャヤヴァルマンⅡは、ほんとうにここで暮らしたことがあったのでしょうか?

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私たちがいた間には、一組のヨーロッパ系の観光客と出会っただけで、訪れる人もないほんとうに静かな遺跡でした。

無造作に放置されている神像を誰が彫ったのか?テラコッタのレンガをひとつひとつ積み上げたのはどういう人たちだったのか?何十トンもある巨石をどうやってあの位置まで運び上げたのか?などなど、素朴な疑問は尽きませんが、ひんやりとした古代の祠堂の陰で、私たちはしごくのんびりとした時間を過ごすことができました。

 

 

 

 

 

TAIZOが愛したレストラン

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私の部屋から歩いて5分のところに、「BANTEAY SREI」というレストランがあります。ほとんど毎日のように前を通っていたのに、これまで気に留めることもありませんでした。そもそも地味な造りだし、界隈はレストランだらけだったからです。

バンテアイ・スレイというのは、アンコール・ワットから北東に40キロほど行ったところにある小型の寺院遺跡ですが、レリーフの美しさと保存状態の良さで有名です。どれくらい美しいかというと、後に“東洋のモナ・リザ”と呼ばれるようになった女神像を、1923年に、アンドレ・マルローがフランスに持ち出そうとして逮捕された、というウソのようなホントの話があるくらいに魅惑的なのです。彼の『王道』という小説は、この事件をモチーフに書かれたものだそうです。

で、この BANTEAY SREI RESTAURANT に、一ノ瀬泰造がよく通っていたと、つい一昨日ガイドブックで見て、さっそくやってきました。

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入り口を入って右手の部屋に入ると、何枚かの写真が飾ってあり、それはTAIZOのものであるということはすぐにわかりました。写真はすべて、お母さんの一ノ瀬信子さんから贈られたものだそうです。

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現存している限りでは、TAIZOが最後に撮ったといわれている写真。ジャングルの向こうに頭を出しているアンコール・ワットへ潜入し、26年の自らの命と引き換えに、大伽藍の写真もたくさん撮ったはずです。もちろんそれらを目にすることはできません。

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メニューファイルの中に、こんな1枚が差し込まれていました。ああ、彼はここに座って、こんなものを食べていたのかと、40年くらい前のにおいまでもがじんわりと立ち上ってくるようで、とても不思議な気持ちにさせられました。

ランチタイムだったし、セイハーとふたりきりなので、スープと麺料理を頼んだだけでしたが、さすがに老舗の味、TAIZOが愛した、というのもよく納得のできる味でした。

全体の雰囲気として、決してTAIZOをウリにしているわけではなく、むしろ彼のことを忘れないように、大切に記憶を保存してくれているような感じでした。店造りは簡素で、お値段も控えめ、働いている人もいい感じで、TAIZOを知らない若い人たちにもお勧めのレストランです。

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黄金色の大伽藍

お昼ご飯は、ラモさんのお宅でごちそうになりました。この村の人口は2,000人くらいだそうですが、家屋は密集していて、周辺には広々とした田んぼが広がっていました。刈り入れが済んだ田もありましたが、これからのものが多そうでした。このあたりは水が少なく、米作りは年に一度だそうです。

村の産業は、米作り。カンボジア米はおいしいので、タイに輸出されるものが多いと聞きましたが、おそらくは“闇貿易”でしょう。国内で売るよりはずっと値がいいようです。中国とベトナム、ベトナムとカンボジア国境でも、私自身何度も見てきました。国境を知らない日本人にとっては、何か大ごとにも思えますが、実際には、オート三輪やバイクの荷台に積み上げた米などが、生活圏のどまん中を走る国境線を、あるいは国境の小さな川を“自由”に行き来して、日々大量に取引されているのです。

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これがラモさんの家の裏庭。電気はありましたが、ガスと水道はなく、燃料は薪、水は天水をためて使います。ちなみに、私がこれまでいた中国黄土高原は、燃料は石炭、水は同じく天水でしたが、こちらの村は70ドル出せば井戸が掘れるそうです。

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これは向かいの家ですが、どの家も見事に同じ規模と造りでした。しかし、メコンからはずいぶん遠いのに、こんなに高床になっているのが不思議です。

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上のふたりは、ラモさんの親戚ですが、両親共プノンペンの建設現場に出稼ぎに出ているので、今はラモさんの家で暮らしています。これも中国の状況とまったく同じです。タイが近く、ビザもいらないので、バンコクに働きに行く人も多いそうです。

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一戸当たりの年収は1,000ドルくらいだそうですが、それにしてはお寺が立派すぎます。ラモさんに聞いてみると、予期した通りの答えが返ってきました。

現世がどんなに貧しくても、功徳さえ積めば、来世には幸せが待っているからと、なけなしの金をせっせとお寺に寄進する人が多く、“貧乏な村ほど寺は立派”なのだそうです。

村の日本語学校

Kittiyous Village という村に行ってきました。ヴッダさんとラモさんというご夫妻が、ラモさんの実家のある村で開いている、ボランティアの日本語学校を見に行ったのです。シェムリアップの街中から、乗り合いタクシーで40分ほど、ひたすらタイ国境の方に向かいます。

この乗り合いタクシーというのは、中国ではおなじみのものでしたが、当地にもありました。もうまっすぐ行くしかない、というような主要幹線道路の傍らで、それらしき佇まいで突っ立っていると、じきに乗用車が寄ってきて、「どこまで行くの?」と声をかけて来ます。料金交渉といっても、すでに相場は決まっているし、先客がいるわけで、だいたいは路線バス並みの料金。私は中国でもよく利用しました。

途中で検問があり、ひとり定員オーバーだった私が乗った車は、5ドルの罰金を取られていましたが、そもそもひとり5ドルの料金なので、そんなのはおかまいなし、警官の方も、まあ、小遣い稼ぎなんでしょうね。。。

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とにかく予定通り、午前10時頃に村に到着しました。砂糖ヤシの葉で葺いた吹きさらしの校舎には10人の生徒が集まってきていましたが、当地の小学校の授業は2部制で、午後になると、また別の子どもたちがやってきて、全部で1日3回の授業をするそうです。それを毎週金、土、日の3日間。時々は日本人のグループからの支援があるようですが、ラモさんたちはボランティアで、ほんとうにたいへんな活動だと思います。

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日本の支援グループが建てた教室ですが、机を買うお金がなく、電気もないので、使われることもないまま放置されているそうです。もちろんのこと“善意”とはいえ、こういった“後先のこと”をあまり考えない支援も多いように思います。この地の話ではありませんが、井戸を掘ったのはいいけれど、事前の調査がきちんと行われていなかったために、後にヒ素中毒が発生しているという地域すらあるのです。

生徒たちはみな小学生でもあり、まだまだほんのカタコトではありましたが、ひとりひとり私にあいさつと自己紹介もしてくれ、何より、とってもかわいらしい笑顔をたくさんもらいました。こんなに小さな頃から日本語に親しんでもらえれば、きっと上達も早いだろうと思うのですが、実は、ラモさんは、来年1月に出産を控えているのです。赤ちゃんが産まれたら、往復1時間半もかけて村まで通うことは不可能で、後を継いでくれる人もおらず、この日本語学校はおそらくは閉校になるだろうとのこと。

“貧しい”村の子どもたちにスキルを身に着けてもらい、新しい選択肢を提供したいという彼女たちの夢と努力が、道半ばでついえてしまうのは、ほんとうに残念でなりません。

シェムリアップ街ブラ 10/31

ウチから歩いて5、6分のところに、LUCKY MALLというショッピングビルがあります。10年ほど前にできたようですが、もちろん当時は、街一番のおしゃれスポットではなかったかと思います。今はやや古くなって、空き店舗も目立つようになってしまいましたが、最近まで、資生堂も店を出していたようです。看板が残っていましたから。

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きのう、そこで見かけたのがこれ。いったいいつからこんな風習が、アンコール・ワットのある街にまで侵入してきたのでしょう?当地には、観光客はもちろん、定住している西欧人も多いので、彼らがターゲットとはいえ、商売になるほどの需要があるということなのでしょうか?

私が最近まで15年間暮らした中国では、“情人節”という風習が、大都市部から徐々に地方都市に広がり、やがて私が暮らしていた村の近くにあった、離石という町までやって来たのを、つぶさに見てきましたが、私個人的には、それぞれの地域に残っている伝統行事をもっと大事にしてほしいなという思いはあります。“情人節”というのは、バレンタインデーのことです。

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こちらは伝統的なザル売りのおっさんたち。漁具とか、鳥を捕まえる道具とか、よく見ると生活に密着したおもしろいものがたくさんあって、私はこういうのを見ていると飽きません。

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LUCKY MALLの前で見かけたワンコ。こういうペット犬、つまり商品としてブリーダーに繁殖させられた犬、というのを、この街では初めてみました。もちろん私が見ただけで、部屋飼いで目に触れないペットも多いこととは思いますが。

これまた中国の話ですが、私の村→離石→省都太原→そして北京と、見事に犬の種類、飼い方が違ってくるのも見てきました。村の犬たちはいかにも“貧相”な雑種で、自由奔放放し飼い。離石に来ると、ペット犬を見るようになり、見栄っ張りの中国人の意識を反映して、いかにもという立派な犬、ちょっと珍しい犬が人気。太原まで来ると、犬は鎖に繋がれて飼い主と散歩し、時には服を着せられています。そして、北京まで来ると、ほとんどみなドレスアップして、そして犬が小型化してくるのです。これらの変遷は見事なもので、中国人の“豊かさ”に比例するペット事情で論文が書けるくらいでした。

当地カンボジアの、今は野性的な犬たちも、やがてはそういう運命に翻弄されてゆくのでしょうか?

キリング・フィールド

市街地を抜けて、アンコールワット遺跡に向かう途中に、ポルポト政権下で虐殺された人々を慰霊するための施設があります。

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左側の白い建物が、かつて収容所として使われていた施設で、この界隈からたくさんの人骨が発見されました。右側の建物が慰霊塔です。この地でも、1975年からの4年間に数千人の人々が虐殺されたといわれています。

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建物の中に入ることはできず、境内に何枚かのパネル写真が設置されていました。今日も、中国人と韓国人の団体客で境内は“賑わって”いたのですが、日本人の姿はありませんでした。

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ポル・ポト、ヌオン・チア、タ・モクなどが写った写真がありました。ポル・ポトに次ぐ第2の地位にあったヌオン・チア(左から2人目)は、終身刑を宣告されて、現在も服役中です。

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セイハーの両親は、60代前半ですが、こうやって強制労働に駆り出された記憶を時々語ってくれるそうですが、考えてみれば、わずか40年前の話です。こういう写真に写っている人々もまだ生きているか、あるいはあの頃にすでに殺されていたのです。

今の時代に生まれてラッキーだったと、30歳の青年にいわれて、私たちの感覚からはひどくズレているように感じて、それにまた心痛みました。

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かつては高等学校だったという、プノンペンのS21(シークレット21)が、ベトナム軍によって発見されたときの写真です。トゥール・スレン虐殺記念館として、当時のままに保存されています。

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傍らにこんな施設がありました。

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私がいま暮らしているシェムリアップという町は、かつて激しい戦闘がくりひろげられた地域で、近隣の村々はクメール・ルージュの支配下に置かれていました。至る所に大量の地雷が埋設され、アンコール・ワットは、世界のジャーナリストが一番乗りを目指した、まさに幻の王宮だったのです。

1992年にユネスコの世界文化遺産に登録されて以降、地雷の除去など、さまざまな“開発”がすすみ、今や年間200万人以上の観光客を迎え入れる、アジアのトップクラス観光都市となりました。

“貧しかった”カンボジアの人たちが、観光で豊かになってゆくのを応援したいと思うのと同時に、私たちが踏む大地の下にも、無残に踏みにじられた、ひとりひとりの人生と家族と夢と希望とが、今も呻吟しているのだということを、忘れないでおこうと思っています。

ワット・ボー

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シェムリアップ川の東側にある、ワット・ボーという寺に行ってきました。相変わらずの強い日差しで、人影もまばらでしたが、これだけ暑くては、外を出歩く気にもならないでしょう。広い境内も閑散としていて、目に入るのはイヌとネコだけです。

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こういう建物には、一軒一軒お坊さんが住んでいるのです。これは中堅どころですね。若い修行僧などは、合宿所みたいな建物で共同生活しているようです。

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狛犬ならぬ、ゾウさんがいました。さすがカンボジア。

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墓地も広大で、クメール式、中華式といろいろ。

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ブーゲンビリアが満開。といっても、年がら年中咲いてるようです。

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境内にイヌもたくさんいたのですが、もう吠えられて吠えられて怖かったです。他に誰もいなかったので、怪しまれたのでしょう。こっちのイヌは日本みたいにペット化していないので、うかつに手を出すと咬まれます。それにデカいのです。シェパードと柴の中間くらいでしょうか。さすがのイヌ好きの私でも、身体さわったりするのは避けてます。写真は、帰り道のスーパーで。こんな感じのイヌが多いですね。

 

シェムリアップ街ブラ 10/22

ゆうべも激しいスコールがありましたが、日中はほんとうに降らなくなりました。日本の梅雨明けと同じで、ぎらぎらの太陽が顔を出します。

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1か月後の水祭りに向けて、川のお掃除。というよりも、しょっちゅうやってるんでしょうね。気温、水温が高いので、水藻の繁殖はすさまじいです。

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川べりでは、道路の補修工事が進んでいました。この暑さの中たいへんな重労働です。

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釣れるかな?

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ホイッスルの音が聞こえたので振り向いてみると、こんなボートが。水祭りレースに向けて練習してるんですね。これからは、日々こんな光景が見られるのかも知れません。でも、プノンペンの120人乗りのボートって、どんな感じなんでしょう?なんだかプノンペンまで行きたくなってしまいました。

シェムリアップ街ブラ 10/21

シェムリアップの中心部をシェムリアップ川が南北に流れ、その西側に観光施設がかたまっています。朝から強烈な陽ざしが照りつけるその川べりを散歩していたら、政府施設の庭に、なにやら派手なものが横たわっており、男衆が何人か作業中でした。

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極彩色の化粧をほどこされたこんなボートでした。普段は見たことがないので、何かお祭りでもあるのでしょうか?

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川べりの方を見てみると、ここにも一艘もやいでありました。むむっ、これは何かあるなと、近くにいたおっさんに聞いても、さっぱり言葉が通じません。一生懸命漕ぐ動作をしているので、きっとボートレースがあるのでしょう。

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長かった雨期もそろそろ明ける時期で、空気もいくらか乾燥してきています。

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陽ざしをよけてひと休み。

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木陰のレストランは昼食客を迎える準備で忙しそうでした。シェムリアップの街は、こういった屋台レストランで溢れかえっていて、屋台メシ好きにはたまりません。

帰ってからセイハーに聞くと、私のあまりの無知さを笑われました。カンボジアでは最大の行事ともいわれる、雨期明けの「水祭り」が近づいているのだそうです。その本番がいかに物凄いものであるか、スマホの映像を見せられながら、延々と“自慢話”が続きました。シェムリアップのボートはほんの小型で、プノンペンのメコン河を遡るボートは、大きいものでは120人の漕ぎ手が乗るのだそうです。

来月の21、22、23日の3日間で、なんでも今年はギネスブックに挑戦する大型ボートが出るとか。これが終わるといよいよ乾期、観光シーズンが到来します。